そのモヤモヤを、 明日のワクワクに。
記事:山本卓 3月上旬、佐賀県西端の有田町役場にフレル株式会社社長の江口昌紀さん(41)の姿がありました。江口さんは、自社ブランド「Fulelu Edutainment Games」の第一弾として、6×6マスに入ったキューブを取り合い、数や色で得点の多さを競う木製の対戦型落ち物パズルゲーム「RoRop(ロロップ)」を生み出した新進気鋭のゲームクリエイターです。 この日、江口さんはロロップを有田町の生涯学習課に寄贈し、町内の子どもたちにロロップのを使って考えることの楽しさを感じてもらうワークショプを開催するために有田町を訪れていました。ワークショップでは、江口さんが一度だけ、ゲームのルールを説明しただけで、参加した子供が夢中になって、キューブの取り合いに没頭していました。さらに、取材中に驚いたことは、子どもたちが自らルールを作り遊んでいたことでした。 江口さんによると、「子どもが集中して考える、没頭するという体験が必要だと感じます。プログラミング教育とは、必ずしもコンピュータが必要なのではない、と思っています。「仕組みを理解すること。なぜ?を突き詰めること」を、ロロップを通じて自分で情報を集め、その情報を活用して問題を解決していく力を育んでいけると、教材として可能性を語った。 一方で「ゲームである以上、楽しさを忘れては駄目だ。」とも語る江口さん。「『勉強するんだ!』などと気負う必要はまったくないです。ゲームが勉強になるという全てではないけれど、考えるって楽しいなというところを身につけていただけると嬉しいなと思います。だって遊びなんだから」とニヤリと笑いました。 ロロップを寄贈された有田町関係者は、教育的な観点でロロップをどのように見たのでしょうか。実際にロロップを体験した同町の松尾佳昭町長は、これからの時代を生きる子供たちに時代をサバイブするために「必要なこと」がロロップにはあるとみています。 【有田町の松尾佳昭町長(右側)】 「『考えることは楽しい』もそうですが、答えがないところで自分なりの答えを見つけることこそ、学びに繋がるのだと思っています。今の時代を生きる子どもたちに、人から与えられるのものではなく、自分自身で見つけたものこそが面白いんだよ、ということに気づいて欲しい」(松尾佳昭・有田町長) また、教育現場の責任者である同町教育長の栗山昇氏はロロップで遊んだ子供たちでつながる有田町の未来に強い期待感を示しました。 【有田町教育長の栗山昇氏(右から2人目)】 「考えたり、不思議だなと感じたりすることで問いは生まれます。その問いを調べていくうちに、新たな問いが生まれます。そうしたことを繰り返しながら、子どもたちの探究心は磨かれていきます。ワクワクする気持ちから、いろんな活動が始まるのです。そして、さまざまな人と触れ合うことで、コミュニケーション力も養われるのです」(栗山昇教育長)。 ”考えること“の楽しさを江口さんが知ったのは、少年時代にゲームと出会ったことがきっかけでした。ゲームを生み出す江口さんは、何を思い、その先に何を見ているのでしょうか。江口さんの仕事にかける想いを、合同会社Light gear代表の山本卓が聞きました。 勝ち負け以上に「考える」を楽しむ キューブのパズルゲーム「RoRop」 【写真: 自社ブランド「Fulelu Edutainment Games」の第一弾として開発製品化した知育玩具「RoRop(ロロップ)」】 ――先日の有田町生涯学習課へ寄贈、そして小学生向けのワークショップ。初めてのゲームを前にして、子どもたちはドキドキ、ワクワクといった感じでしたね。 江口昌紀(以下、江口) 遊ぶ前に一度だけルールの説明をしたんですけど、僕が思っていたよりスイスイ遊んでくれて嬉しかったですね。「負けても楽しかった!」というアンケート結果を見た時、よっぽど面白かったんだな、と嬉しくなりました。こういった瞬間が「このゲームを作った甲斐があったな」って嬉しくなります。でも、それ以上に嬉しかったのは、“自分オリジナルのルールを作って遊んでいた”子どもがいたことなんです。 【じっくりと考えながら集中したゲームが繰り広げられていました】 江口 簡単にいえば、色並べのゲームです。下段から色を取って上段にある同じ色のブロックに積み重ねていき、早く色を揃えたほうが勝ち、といったルールでした。私自身は全く思いつかなかったルールで、 自分でも考えつかなかったルール考えられた、「やられた!」って、嫉妬しちゃいました。(笑) 【感想を書く児童。江口さんの上着の鳥の絵もしっかり描かれていました!】 ――自分でルールを作って遊ぶことの楽しさわかります。トランプでやる大富豪とか地方ルールとかも、やっぱり面白かったですもん。 江口 ロロップは次に何が落ちてきて、どのキューブを取れば色をそろえることができるかを思考したり判断する力、獲得したキューブが何点になるかを掛け算、足し算を使って計算する力が必要です。いずれも楽しみながら身につくスキルで、ゲームを通じて、“考えるって楽しいな”と思ってくれたら嬉しいですね。 人と人との距離感を楽しむことで、自分自身が成長できるアナログゲームの魅力 ――先日体験会の際に参加された子どもの保護者から「パソコンでのプログラミングのゲームもありますが、機械で対戦するのと、人と一緒にわいわいとボードゲームで遊ぶのとは感覚が違って面白かった。アナログゲームだからこそ出来る1対1のコミュニケーションの楽しさを感じました」との感想が寄せられたと聞きました。フレルの事業を見ているとゲームを中心としたコミュニケーションの距離感を大切にしているように感じました。 江口 フレルの社名にある通り、「触る=フレル」ことのできる距離を大切にしています。だからフレルが提供するのはデジタルゲームではなく、アナログゲームなんです。みんなで集まって遊ぶ。そして、元々のルールに自分たちで新しく作ったルール加えていくこともできます。新しい遊び方(ルール)を自分で考えると、人に遊んでもらうために、どうやって遊び方を伝えるかを工夫しなければなりません。その工夫はコミュニケーション能力の向上につながると思うんです。ゲームや遊びは、楽しいだけで終わらない。社会性や思考力を鍛え、ゲームや遊びを通じたコミュニケーションで友達とも仲良くなれる。 楽しい以上の価値がアナログゲームにはあるのです 。 【事務所内にはたくさんのボードゲームが置いてある】 ――アナログゲームは、相手と対峙しながら遊びますよね。対峙することで生まれるコミュニケーションがアナログゲームの魅力なんでしょうか。 江口 例えば、「このサイコロを使っちゃダメだよ」とか、ルールをその場で作ることもできる。自分たちで話し合いながらルールを考えることで、ゲームをさらに進化させる可能性も秘めているのです。近年、アナログゲーム、ボードゲームの市場は右肩上がりなのですが、その理由は、デジタルでもアナログでも、おもちゃやゲームで遊ぶことで生まれる コミュニケーションが重要視されてきている からじゃないかと個人的には思っています。 【事務所内の工房。ここでロロップは生まれた】 ――ゲームの醍醐味はどこでしょうか。 江口 ロジカルに考えられる力をつけるのがプログラミング教育の本来の目的。デジタル社会には、あらゆる情報が共有されるため、皆が同じ情報持ち、同じような考え方になりやすい性質があり、もしかすると個性が薄まっていく可能性もある。 私は好奇心と個性を育むのがアナログゲームの醍醐味だと思っています。 仕組みを理解し「なぜ?」を突き詰めること。ロロップをする中で、「次の人はどうやってキューブを取るのだろう?」「どうやってキューブが落ちてくるのか?」といった 空間認識能力や先読み力、計算力、判断力 を育んでいける。ゲームで遊んでいた結果、楽しいものが学びにつながっていけば良いな、と思います。 「考える事って楽しいな」と感じた経験が、自分自身の原点 【インタビューに答えてくれる江口さん】 ――どんな幼少時代を過ごしていたんですか? 江口 小さい頃から、ゲームや遊びが周りにたくさんありました。ファミコンやトランプ、オセロ――。父親と将棋もやっていたりしてましたね。ある時期に友達と、 “ゲームのルールを作る”遊び をしていました。それが本当に楽しくて 「考えることって楽しいな」と感じた経験が、今の自分自身の原点 です。 ――江口少年は、考えることの楽しさをその時代に感じでいたんですね。 江口 考えることは、嫌いじゃなかったと思います。ただ、勉強はさほど好きではなかった。そこの違いって何だろうと思います。(笑) 勉強もゲームのように楽しめたら良かったのでですが…。 ゲームは、僕の人格形成に結構大きく影響している と思います。 ――これまでの人生で、ゲームと出会ったことで「自分が変わったな」ということはあるんですか? 江口 「落ち着きがない」だの「理屈っぽい」だの、今も言われることはさておいて。 とくに昔から変わってないんです。 ただ単純にゲームが好き。遊ぶことが好き。とにかく好き。ただ、そうしたゲームや遊ぶことを通じて、物事を長時間考えることに抵抗はありません。 「考えることを楽しいと感じることが尊い」 【体験会にて。江口さんから楽しそうにレクチャーを受けている子どもたち】 ――僕も子供たちとロロップで遊びました。「なるほど。その手で来るのか」って真剣に考えていたり、得点を計算する時に、自分で点数を導き出せるとたどり着けると、本当に嬉しそうで。「1つのゲームから様々なことが学べるんだなあ」と僕自身が再認識させられました。 江口 考えている時ってみんな楽しいんですよ。言葉じゃなくて、感覚で感じるものだと思います。 ロロップには知識はいらない。 どうすれば相手に勝つことができるかを考え、その考え方で結果が変わってくる。 自分たちでルールを作る時も同じで、知識はいりません。ロロップだけを見てゲームのルールを考える。6色6個のキューブをどうやって動かそうか、そう動かしたら楽しいかを考えてルールを作る。ゲーム考案者の私が思いつかなかったような面白いルールが出てきたりします。 子供は発想の天才だな って思います。 【どんどんアイデアが生まれ独自のルールを生み出している子供たち】 ――「 ロロップ 」の今後の展望をお聞かせください。 江口 生涯で初めて地球の裏側にまで持っていけるコンテンツ 作ったと思っています。言葉もいらない、知識もいらない、つまり、あらゆる国のあらゆる人たちが遊べる、それがロロップです。だから「日本だけに留めておくのはもったいないな」と思います。むしろ海外の方に愛されるんじゃないかとかも思うほどです。触ってもらい、そこに価値を感じてくれる人達が海の向こう側にいる。なので海外展開も視野に入れています。 ――国や地域で新しいルールが出来たら、また面白いですもんね。 江口 そうですね。世界中の人に遊んでもらいたいし、 考えることは楽しいことを世界に広めていきたい 。 考える行為は僕自身ものすごく尊いものだ と思っています。ゲームが生み出す世界観を通じて、世の中に社会貢献したいと思っています。 「考える」と共に、僕は仕事をしています。 【このクシャッとした笑顔に、癒されました】 ――江口さんが事業を続ける理由ってなんですか? 江口 事業を続けるという感覚よりも、ただやりたいことをしているだけ、という感覚が近いのかもしれません。ミュージシャンが自分の出したい音があるから曲を作ったり、楽器で演奏したり。歌を歌うのと同じように、 「ゲームを作りたいからゲームを作る」ただそれだけなんです。自己表現というか、アーティスティックな世界 なのかもしれないですね。 ――辞めようと思ったことはなかったんですか? 江口 楽しいことって永遠に続けられますよね。僕にとって、考えることが楽しいことなので、ゲーム作りは永遠に続けられるんです。事業としての資金の工面など、やらなければいけことも多くて苦労もありますが、 世の中にゲームを送り出し続けたい と思っています。 ――江口さんが生み出す「ゲームや遊び」とは、なんなんですか? 江口 ゲームや遊びからは、話し方や気配りといったコミュニケーションスキルを子供が自然に学ぶことができます。そうしたことは、親や先生から注意されながら学んでいくのではなく、遊びの中から考え学んだ方が、楽しく身につけることができます。ロロップも教育の教材という位置づけではなく、子供たちが自然と、楽しんでいるうちにスキルなどを身につけることができる コンテンツ になってもらえれば、と思います。 ――確かに遊びやゲームが教育教材になってしまったら、違う気がしますね。 江口 例えば、ロロップで学校の成績がつくようになったら、ロロップは楽しくなくなります。ロロップができなかったって、人生で困ることは一つもないんです。(笑) だからこそ、思いっきり楽しむことができるんだと思うんです。 ――ロロップや江口さんがゲームを通じて生み出したい世界感ってありますか? 江口 一言では言い表せないのですが、 好奇心や思考力などを育むきっかけの一つとして、ロロップを提案し、世界の平和に貢献したいと思っています。みんなが世の中のことをもっと深く知ろうと思ったり、思考力を深めたりすることで、家族や友人、知人などの周りの人を深く知ろうと思うことにつながり、その輪がどんどん大きくなって、国や世界レベルに広がっていけば、世界平和につながるのではないでしょうか。 だからこそ、最初に義務教育で好奇心や思考力を育むことのできる場である初等教育は楽しいものであってほしい、と強く願います。考えることの楽しさを知ることは、学ぶことのはじめの一歩だと思うからです。親に「勉強が大事だから勉強しなさい」って言われたら勉強しますか? ――勉強したくないですね。 江口 勉強や学ぶことで何が大切なのかを伝えるのってすごく難しい。だから算数やコミュニケーションなどあらゆることを、考えるためのきっかけづくりをゲームでできればと思うんです。僕は教育者でもなんでもないですし、思想家でもない。僕にできる事は、ゲームを作って学ぶことに寄り添い、 「考える楽しさ」 を知るためのきっかけの提案をしているんです。 学びを面白がることが世界平和につながりますし 、僕が目指すべきことは…。後世に天才と呼ばれる人物が出てきた時に「ロロップを通じて考えることが楽しいんってことに気付かされました」と言ってもらえるようになりたいです。未来の天才たちの誕生の貢献に繋がっていけたら嬉しいし、そうなってもらうためにも、今日もゲームと共に仕事をしています。
記事:山本卓 「アーティストの作品は見るだけではなく身に着けて楽しみます」と話す西村史彦さん(37)は、生きづらさを面白さに転換する』をビジョンに掲げる株式会社すみなすの代表だ。すみなすが開所した就労継続支援B型事業所「GENIUS」(ジーニアス)には、メンタルの不調など、日常生活で何らかのハンディを抱える方が、アーティストとして所属している。インタビュー前半では、西村さんがジーニアスを立ち上げるまでのお話をお聞きしましたが、後半ではジーニアス立ち上げ以降のお話を合同会社Light gear代表の山本卓が伺いました。 向かい風の中でも、際立つ存在となった「GENIUS」 【事業所入り口に飾られた看板もGENIUS所属アーティストの作品】 ――GENIUSはアート活動をベースに、利用者自身の強みを活かしたお仕事ができる就労継続支援B型事業所。西村さん自身も学生時代にアートを学んでいたようですが、「アートを活かした支援」に着目したきっかけは何だったですか。 西村史彦(以下、西村) きっかけは、福岡の商業施設で偶然見かけたアート作品です。タイル一枚一枚に作品が描かれてあるもので、「すごくカッコいいな」と思いました。調べてみると、描いたのは障がいを持った人だったんです。当時、高齢者介護の仕事をしていた僕に衝撃が走りました。 同じ福祉業界に、高齢者介護とはまた違う「支援の在り方」があったんだ、と。このアートとの出会いが、自分の中で今のGENIUSに繋がる種火になりました 。 ――開所にあたり、西村さんのGENIUS構想は佐賀でどんなスタートを切りましたか? 西村 構想自体は2019年4月に完成しました。開所にあたり行政の福祉部門に相談に行ったのですが、「ダメだ」と門前払いでした。理由は明確で、就労継続支援B型が飽和状態だったこと、アートでの収益化の根拠が見えないことでした。行政からは「収益化の根拠を示せ」と言われました。事業も始めていない時期で収益性の根拠も見えていない状態でした。今、振り返れば、しっかりとした事業計画を立てていない自分の計画の甘さはよくわかるのですが、その時は、「 わかりました。介護事業所のお掃除の仕事をします! 」とかなり強気に計画書を提出しました。 ――強行突破でしたね。 西村 なんとか認可が下り、介護事業所の掃除ではなく、アートを通した支援を始めたんですが…。すぐに行政側の発覚するところになり、ひどく怒られました。ただ、その時はアートでの収益化について、 言語化も数値化も出来ていなかったのですが、自信と確信はあったので「1年後を見ていてほしい」と行政側に伝えました。 【緻密で立体的なオブジェ。その素材からインスパイアを受けている作品も】 ――アートの領域で事業が軌道に乗っているGENIUSですが、アート領域はどのようにして伸ばしていったのですか? 西村 2019年11月に株式会社すみなすを設立し、2020年2月に就労継続支援B型施設GENIUSを開きました。開所は新型コロナウィルス流行と重なってしまったのですが、この事態をチャンスだと捉え、しっかり事業展開するための準備期間としました。まずは起業セミナーに参加したり、青森県で同様の活動をしている事業所に視察をしに行ったり。 福祉行政を頼るばかりでなく、収益性を考えるのであれば同じ行政でも産業政策をやっている部門だと思い 、県庁の産業DX・スタートアップ推進グループ(当時は産業DX・スタートアップ推進室)に相談にのってもらっていました。そして、同グループが実施している起業家支援プログラムでアートの事業化について、さまざまな専門家にビジネスをブラッシュアップしてもらいました。プランのプレスリリースも出しました。そうこうしているうちに、開所前にも関わらずテレビや新聞などの取材がまいこむようになりました。ブランド構想やレンタルアート構想などを公開していき、多くのメディアに掲載されると「この前新聞で見たよ」などと福祉行政の担当者が声をかけてくれるようになりました。「アートと就労継続支援」という構想はまだまだ際立つものがあったんだと思います。でもそれは数字も伴わなければ、駄目だったとは思いますけどね。 「障がい」という言葉の本当の意味。 【アトリエに飾られたたくさんの作品を眺めながら微笑む西村さん】 ――多様性が叫ばれる昨今の日本社会も、「障がい者」というフィルターがあると、なんとなく距離を置かれるようなことはまだあると思います。そんな社会でGENIUSを始めていくことのへの不安はありましたか? 西村 僕は初めからアートの可能性を信じていましたし、何よりこの事業は僕にしかできないと確信していました。「障がい」という言葉にも思うことがあります。利用者と表現する方もいるかと思いますが、僕たちは 障がいの有無ではなく役割で区別したいという考えから彼らを「アーティスト」と呼んでいます 。人々の 普遍的な課題だと思いますが、人は本質よりも名付けられた「言葉」で受け止めがち ですよね。まさに「障害」という言葉もそうだと思います。その言葉の本質まで触れずに、従来のニュアンスで受け止める。 GENIUS立ち上げ前から僕は「芸術において障がいも障壁もないんだ」と強く発信してきました。なので僕は「障がい」という特徴には、全然着目をしてない。 障がい者とは思っていなくて、「特性強めだよね。君達」って思ってます。 【アーティストがカラーペンを手に作品を描く様子】 かと言って僕らが何もせず、何の助け合いもなしにアーティストが現代社会の中に放り込まれたら、それは彼らの「生きづらさ」に直結します。だから、本質に触れる機会を生み出したいんです。 障がいの特性は裏を返せば、才能になるという本質を知っているから。 人間は表裏一体なんです。社会も当事者も、「障がい」っていうくくりで受け止めるから、不便なもののように捉えちゃう。だからこそ僕は、「アーティスト達」が作っている作品なんだ、という制作者の本質にこだわっているんです。 ――そんな西村さんにとって、アートの醍醐味とは? 西村 アートには、ストーリーがあります。ビジュアル的に飛び込んでくる面白さもあるけど、背景にあるストーリーを知って鑑賞してほしい。 ストーリーとアートが掛け算になった時に、予期していなかった発見や驚き、感動が生まれる。アートは、表現方法の一つであると共に、価値観や世界観、生き方そのものだと思う んです。だからこそGENIUSに所属するアーティストの作品は人の心に響く。そう感じています。 僕は今、「生きづらさは転換できる」ということを証明し続けている。 【アート作品一つ一つに物語がある。ストーリーを知るたびに心が踊る】 ――アーティストの生きづらさの原因は何だと思いますか? 西村 色々あると思います。それは自分への自信の無さだったり、人は社会の作った枠に当てはまらなきゃいけないという強迫観念だったり。それが生き方の選択肢の幅を狭めてしまう原因になり、生きづらさとなると思います。 事業を始めた頃、友達や行政から心配されました。行政側は、アートと就労支援が上手く合致するイメージがなかったのでしょう。もし潰れたりしたら、利用している方々の行く場所がなくなってしまう、という心配があるように感じました。友達からは、僕の「興味の対象が変わりやすく継続が苦手な性格」を見抜かれていましたし。でも今は周囲も「ようやく、史彦らしさが戻ってきたね」と言ってくれます。見返すこととは違うかもしれませんが、ようやく本当の自分を見せられているような気がします。 僕は以前まで「自分は何もできない人間だ」とか、「社会には価値のない人間かもしれない」なんて思っていました。でも嫌々始めた介護の仕事、息子の障がい、友達の死――。いろんな出来事を経験して、僕自身が「生きづらさ」を面白さに転換できたのだから、その生き様を通して 「面白さへの転換」を証明することで、生きづらさを感じてつらくなっている誰かが勇気を踏み出す一歩になれたら と思っています。 ――GENIUSを通じて、西村さん自身が変化したことは? 西村 僕はGENIUSを通して、生きづらさをおもしろさに転換することができています。落ち着きのなさは、アクションを起こせる力へ変わりました。興味の移りやすさは変化をし続けられる力に、僕の苦しい経験や息子の障がいは、人を巻き込む力に変わった。僕は今、生きづらさは転換できると証明し続けています。僕の生きづらかった人生はすべて、面白さに変化していますね。 今日も生きづらさと共に。 【制作中の作品を手に撮影するも、乾いておらず焦っていた西村さん】 ―-西村さんにとってGENIUSとはどんな場所なんですか? 西村 アート制作環境を提供している場所ですが、それが本筋でやっているわけではないと思っていて、 世界中の普遍的な生きづらさにアプローチしていく「生き方提案」をする場 だと思っています。ウォシュレットは、元々障がいのある方が障害のある人のために作ったものが、今や一般化されている。それと同じように、障がいを持った人のために作られたGENIUSが、 大人も子供も男女もない、すべての人の生きづらさの障壁を外す役割となり生きづらさを面白さに転換できる場であればいいな と思います。 【ひとつひとつの言葉に力強さを感じたインタビューでした】 ――GENIUSを運営していく中で大切にしてる想いはなんでしょう? 西村 GENIUSは寄り添う支援ではなく「伴走支援」です。言い方は悪くなりますが、今まさに生きづらさを感じている人というのは、川でおぼれている状態に近い。自分が上を向いているのか下を向いているのか、どこにいるのかがわからない。だから、「ここが陸なんだよ」って知らせて、陸に引き上げるような作業です。時には寄り添うことも必要なのかもしれませんが、生きづらさって絶対になくなりません。光と影のように、切っても切り離せないもの。だったら、生きづらさを受け止めつつも視点を変えておもしろさに転換し、窮屈や退屈でいっぱいの強迫観念の中から、引き上げる。 表裏一体の矛盾を愛することを大切に しています。その姿勢が伝われば嬉しいですね。 ――最後に、これからの目標を聞かせてください。 西村 いつか、誰もが生きづらさを面白おかしく転換できて、自分らしく生きられている世界になって、GENIUSの事業支援が必要なくなるような世界になってほしい。それが理想です。だから僕は生きづらさと共に、今日も仕事をしています。 ――今日はお忙しい中、貴重なお話ありがとうございました。
記事:山本卓(合同会社Light gear代表) 「私、型にはまりたくない。というかはまれないんです。空気でありたい」。 そう満面の笑みで話すのは、代表の三田かおりさん(44)。「地域経済の循環。そして持続可能な未来を目指す」をビジョンに掲げ、2021年12月に株式会社Retocos(リトコス)を設立した。高島、神集島、加部島、小川島、加唐島、松島、馬渡島、向島。唐津市にある8つの島を拠点に“島と人”、“自然と産業”を繋ぎ、これらの循環を目指して活動をしている。島の耕作が放棄された土地にホーリーバジルを植え、自生している椿や甘夏といった島の恵みを原材料にしたコスメや香り作り体験会などを行ってきた三田さん。だが、事業が進むごとに変化する環境に戸惑い、周囲からの期待などが混ざり合って “混沌の時期”があったという。そんな三田さんの仕事への想いについて、三田さんと会えばずっと笑い合っているような関係の山本卓が聞きました。 自然や風土など、島でもまったく違う面白さ 【早朝。大きな荷物を持って島に上陸をする三田かおりさん】 ――高島にようやく来れました。今日は結構な大荷物ですね。 三田かおり(以下、三田) 今日から3日間、高島で生活するので、荷物は多めに持ってきました。普段は佐賀市内に娘と住んでいるので、島には通っている状態なんです。でも、もう少ししたら島に移住する予定です。 ――三田さんは「島」のイメージが強いんですけど、もともと「島」で仕事をしたかったんですか? 三田 場所は、どこでも良かったんです。たまたま自分がやりたいことが、 「島という環境だったらできるかも」 と思ったんです。大学卒業後に、外資系化粧品のラグジュアリーブランドの美容部員として働いていたのが、たまたま商工会連合会に転職して、たまたま一般社団法人ジャパン・コスメティックセンター(JCC)のコーディネーターとして声がかかって、たまたま島と関わった。いろいろな「たまたま」が重なった、ただ、それだけなんです。 【唐津から船で10分ほど。気持ちいい港がある高島】 ――島とかかわり出してから、起業を考えたんですか? 三田 商工会連合会に所属している時に、衰退している商店街に人を呼び込むプロジェクトにかかわりました。その時に「地域の人たちで新しい未来を創造していくのってすごく面白い」と感じたんです。そんなある日、コスメで地域活性化をすることを目的としたJCCが立ち上がったんです。そのJCCから声がかかり、それをきっかけに島にかかわることになりました。 島にかかわるようになると、コスメを安定供給するための人材確保の必要性など、いくつも課題が見えてきました。課題解決に向けて活動していくと、共感の輪が広がり、加唐島の椿に可能性を感じていただける方々が増えてきました。すると椿の需要がさらに増え、加唐島だけでは原材料確保が難しくなっていきました。そんなある日、島民から「ほかの島にも椿が自生しているよ」と教えてもらったんです。 ――そこで他の島へ足を運ぶことにしたんですね。 三田 他の島に行ったら、宝物がたくさんあったんです。島にしか咲いていない植物もあれば、土壌の性質や自然、風土――。「島ごとに特性がまったく違う」ことに面白さを感じました。島の魅力に触れたことで、 「島の特性をいかしながら、地域課題を解決して、島の生産力をあげる循環の仕組みづくりをしたい」 と思うようになりました。 ゴミが落ちていたら拾うように、当たり前のことをしているだけなんです 【宝当神社で有名な高島の島民は約200人。歩いて一周50分ほどの小さな島だ】 ――JCCを卒業し、会社ではなくNPOを設立した理由は何だったんですか? 三田 起業って、初めての経験なので分からないことだらけ。当時の私は 「地域課題を解決するならば、NPO法人を立ち上げるしか方法はない!」 と思い込んでいました。 ――確かに起業って分からないことの連続ですもんね。JCC時代の事業を仕事にしたイメージなんですか? 三田 初めから「任期終了後は、JCCで作った事業を自分の事業にしてね」と言われていたんです。JCC時代のミッションは、コスメの本場フランスと連携し、佐賀県唐津市などに化粧品の産業集積地をつくることでした。「唐津コスメティック構想」と名付けられた取り組みでは、産業を生み出し、グローバル展開などを目指すことを目標としていました。 【島のあちらこちらで自生している椿】 ――島と関わり始めのころは、どんなお仕事をされていたんですか? 三田 島の椿の収穫量の調査や、島の椿を使ってもらえる企業が何件あるか、といった仕事をしていました。また、地元の椿を使って化粧品を開発することも仕事でした。 島をコスメ原材料の産地にすることが目的 だったのですが、「大手企業に使ってもらえたぞ!一件獲得!」みたいな打ち上げ花火ももちろん大切なのですが、同時にコスメの原材料作りを、島に根付かせるための仕組みづくりも進めなければ、課題の根本的な解決につながらないと思うようになりました。「なぜ、唐津でコスメ構想を立ち上げるのか?」を、自分なりに考え直すようになりました。 【海岸線沿いから一本路地に入ると、レトロな街並みが広がる】 ――NPO法人としての事業は、何から始めたんですか? 三田 まずは人々が島で営みを送るための環境を整えることが大切だと考えました。島ではイノシシの数が島民の人口を上回り、駆除が追いつきません。監視の目が届かないから、大事に育てた野菜が食べられ、畑は荒らされていく。この負の連鎖をどう断ち切れるのか必死に考えました。そこで目を付けたのがハーブでした。 ――負の連鎖を断ち切るためのハーブですか? 三田 ホーリーバジルなどのハーブは、イノシシなどの害獣が嫌いな匂いがするらしく、植えると畑に近寄ってこないんです。さらに、これまで雑草が生い茂り、イノシシが身を隠しやすかった耕作放棄地を再び畑に戻すことで、人間の目が行き届き、イノシシの被害は少なくなっていく。さらにハーブ畑が増え、安定した量を収穫できるようになれば、加工などのお年寄りでもできる軽作業も増え、仕事が生まれて産業が育つ。こうして循環の仕組みを作るために、NPO法人を立ち上げようと思ったんです。 【イノシシが、わざわざ海を渡り、畑を荒らしている】 ―NPO法人リトコスとして事業を始めていくにつれて、三田さん自身の環境もガラッと変わったんじゃないですか? 三田 そうですね。NPO法人リトコスから株式会社Retocosになって3年が経ちました。様々な賞をいただいたり、「三田さんはすごい事をやっているね」と言っていただけることも多くなってきました。やっていることを評価していただくのは嬉しいのですが、なんだか気恥ずかしくて。「 私は、地域を救う人じゃないんですよ」(笑) 私の事業は「 SDGs だ」といわれることもあるんです。でも昔から島で当たり前に行われてきたことをしているだけであって、「SDGs的なことをやろう」なんて思ったことは一度もないんです。ゴミが道端に落ちていたら拾う、ただそのぐらい当たり前のことをしているだけなんです。 人に好かれようが嫌われようが、やっぱりやるしかない 【防波堤には、子どもたちが書いた可愛い魚の絵がある】 ――たくさんのアワードなどを受賞されているので、とても華々しい活動だと思っていたんですが、本人としてはギャップを感じてられていたのですね。 三田 私が目指したいのは、 人々が自然と共生しながら豊かに暮らす持続可能な社会 なんです 。 コスメの原材料の生産はあくまで手段なので、椿油やハーブなどを使った『コスメの人』というイメージがついてしまったことにギャップは感じました。また、もともと島の出身ではない私が、「島のために頑張っている人」というイメージが持たれるようになって。このことにも自分の認識とギャップを感じていましたね。私としては、昔から当たり前のようにやってきたことを、当たり前のようにやっているだけだったので。 ――様々なギャップが生じてもビジネスを続けている転機のようなものはありましたか? 三田 やっぱり佐賀県庁の産業DX・スタートアップ推進グループの北村和人総括監の助けがあったからだと思います。NPO法人時代に産業DX・スタートアップ推進グループがやっているアクセラレーションプログラムに参加しました。その頃、北村さんから何度も問いかけられていた言葉がありました。それは「三田さんは地域のために、なんでやるのか?」というWHYの部分でした。北村さんの問いの答えをずっと探していました。当時、環境が私を型に押し込めているという感覚に陥り、どうしていいのか分からなくなっていました。そんな苦しい時、手を差し伸べてくれる人、応援してくれている人、理解してくれる人は、実は内側だけではなく、外側にもいることに気が付いたんです。 【時折みせる、三田さんの表情から、これまでの苦労が伺える】 ――全員に理解されようなんて、無理な話ですもんね。共感してくれる人は外にもいた、という感じでしょうか。 三田 事業を始めたころ、耕作放棄地問題の解消など、島の地域課題が解決されるためには、全ての人に受け入れてもらうことが大切だと思っていました。だけど、「別に地域を活性化してもらわなくていい」とか、「現状維持でいい」と思う人だっているわけです。「自分が良かれと思って進めたことが、実は相手はそう思っていないこともある」、そこに気付けた。そこは大きかったです。。(笑) だから、まずは、私が良いと思ったことをやってみる。そして、考えに共感してくれる人とは、一緒にできたらいいなと、シンプルに考えるようにしました。北村さんからの問いの答えを探していくうちに、「人に好かれようが嫌われようが、良いと思ったことをやるしかない」と、覚悟が決まったんです。 逆境を乗り越えてきた原動力は「娘のため」 【もはや“戦友(?!)”の娘さんとの素敵なツーショット】 ――三田さんが事業を進めていく原動力はどこからくるんですか? 三田 実は過去に離婚を経験していて、その時に自分を追い込んでしまい、毎日泣いて過ごしていました。娘は2歳ぐらいでしたが、テレビの「戦隊ヒーロー」みたいな服ばかり着るようになって。「この子はLGBTなのかしら」と疑問に思って、保育園の先生に聞いてみたんです。そうしたら、「三田さんのお嬢さんは、お母さんを守るために、強くなろうとしているんですよ」と教えてくれたんです。 ――娘さんも、「お母さんのために何かしなきゃ」と思ったんでしょうね。 三田 よく「何でそんなに頑張れるんですか?」と聞かれるのですが、私は決して強くてパワフルな人間ではないんです。弱くて小さな人間なんです。でも、そんな私が、これまで事業を続けて来られたのは、娘の存在があったからだと思います。離婚して、「私が泣いている場合じゃない。私がこの子を育てなきゃ、戦わなきゃ」って思うと頑張ることができます。離婚した直後も、仕事をしながら娘と過ごす時間を作るにはどうすればいいかを考え、「事務の仕事であれば、娘との時間を作ることができるのでは」と考え、それまでの美容部員の仕事を辞めました。20年前にパソコンのインストラクターの資格も仕事に繋がると思って取りました。 ――それから商工会連合会に就職して、地域創生と出会い、島と出会って今に至るということなんですね。 三田 島との出会いもありますが、起業して、事業を進めていけるのは娘の存在がとても大きいんです。 今の自然環境を次世代に繋いでいこう、少しおかしくなっている部分があれば、何か行動を起こそうと思えたのは、やはり自分の娘に何をつないでいくかを考えたからなんです。株式会社にしたのも、事業を継続していきたいという思いのあらわれです。 私は、娘から生きていく強さとつないでいくことの大切さを学びました。 私は「自然と共に」今日も仕事をしています 【どんなことにも前向きな三田さん】 ――三田さんがRetocosで大切にしていることは何でしょうか? 三田 私は、島の現状が 『日本の縮図』 だと思っています。自分たちの生活のために、人間がもともとあった自然に手を加え、環境を変えてしまった。そして現代、人口が減り、耕作放棄地が増え、新しい産業も生み出されていないまま過疎化が進んでいる。どんどん衰退している現状が島にはあります。島を知れば知るほど考えることも多くなり、「自分に何が出来るのか」を自らに問いかけてきました。 別にこの島だから、この土地だからといったこだわりはありません。ただ、私は島だったというだけです。 こうした課題は全国どこででも共通している課題です。皆さんには、私がやっている事業だけを答えだと思わずに、その地域の課題に向き合い、環境について考えてほしいです。私は、この島を産地にしたい。そして、継続できる事業にしていきたいと考えています。 ――循環する仕組みづくりが目標であれば、コスメでなくてもよかったのでないですか? 三田 そうなんですよ。自分は「コスメに縛られていたな」と最近気づきました。別にコスメじゃなくてもいいんですよね。自分がこれまでやってきたことを繋いでいったら、コスメや香りを切り口にしていただけのことなんです。私はコスメや香りの資格を持っているわけではありません。土から化粧品を作ったり、土から自分の香りを作るのって面白くないですか。(笑) 私が自然から学んだことを、島に来てくれた人と共有したいんです。 【島で栽培されているハーブ】 ――僕自身も地域活性化の事業に取り組んでいて、なにかと地域活性化の答えを求められることがありますが、答えなんてないんですよね。一人ひとりが地域に入って感じたことで「これをやるよ」って旗を振り、地域に関心を持ってくれた人に問いかけ続けることが大切だと思いますね。 三田 離島って究極のローカル中のローカル、「僻地(へきち)」じゃないですか。そんなところから私は「こんなことがあったらおもしろくない?」って提案しているだけなんです。島を歩いてみるとわかるんですけど、足元には宝物がたくさん転がっています。私は島に生えている雑草でさえ、化粧品の原材料に使うほど、島の宝物を大切にしています。島をコスメや香りの原材料のある産地にして、それをきっかけに、人が島に来てくれるようにすること。香りづくり体験などを通じて、これからの地域資源や環境について考えるきっかけにしてもらいたいのです。。 ――人間関係もそう。心の距離もそう。三田さんは島を通じて、自然との関係性を再生し、編み直す事業をしているように感じますね。 三田 自分では“香り” が島を知り、環境を知り、環境について考えてもらう方法だったんです。地域活性化に答えなんてでなくてもいいんです。この場所に自生している植物を使って、その人と私の合作の香りを生みだすことで心を通い合わせる。これこそが、本当に自分がやりたいことなのです。 【一つ一つ手作業で抽出している島の香りたち】 ――香りを持ち帰った後に、ふと作った香りをかぐと、作った時の記憶が呼び起こされることがありますもんね。それも感覚の共有することに繋がる気がしますね。 三田 自然と人との間に一定の距離感を保ちながら関係性を紡いでいく。島に来た方が、島を離れても、香りをきっかけに島のことを思い出し、島から感じ取ったことを自分の生活に取り入れて欲しいんですよね。 【自然とともに仕事をする三田さんは常に自然体だ】 ――最後に、三田さんの今後の展望などあればお聞かせいただけますか? 三田 NPOを始めた時は「島のために」という想いはありました。でも私は島の人でないから、私に島をどうにかしてもらいたいと思わない人もたくさんいます。 私は、社会貢献をしたいわけではありません。 島の宝物でもある椿やハーブの産地を作り、島に訪れて事業を生み出し、関係人口を作り、自然を再生させて経済回す。自分がやりたいことをやっていく。だたそれだけですね。 ――三田さんは今後、「何者」になっていくんでしょうかね? 三田 自分は何者でもない。無色透明で無臭な空気でありたいです(笑)。「今日の風はこちらから吹いているな」ぐらいの気分でね。事業を継続するためには、今何が出来るかを考えて行動を続けます。それが私の現在地であり、それ以上でもそれ以下でもないんです。だから私は「自然と共に」今日も仕事をしています。 ――お忙しい中、ほんとうにありがとうございました。 プロフィール 三田かおりさん 佐賀県佐賀市出身。外資系化粧品メーカーに就職後、出産を機に佐賀県内の商工会連合会に転職。JCCを経て、人口減少、耕作放棄地問題など、地域課題に直面し、島に産業を作り活性化につなげたいとNPO法人リトコスを設立。2021年には株式会社Retocosの代表を務めている。現在、エシカルツーリズムや離島留学などの幅広い事業にも取り組まれている。
「ふざけていないと生きていられない!」と断言する西村史彦さん(37)。 『生きづらさを面白さに転換する』をビジョンに掲げる株式会社すみなすの代表だ。すみなすが開所した就労継続支援B型事業所「GENIUS」(ジーニアス)には、メンタルの不調など、日常生活で何らかのハンディを抱える方が、アーティストとして所属している。 ジーニアス所属アーティストの作品は今、佐賀県内だけでなく、世界に活躍の場を広げつつある。そんなアーティストたちをプロデュースする西村さんだが、自分自身を見失い、本人も「暗黒を生きていた」という9年間が存在する。友人の自死、障がいを持って生まれてきた息子の存在。いつも見せる屈託のない笑顔の裏には、「生きづらさと共に」歩んできた西村さん自身の物語があった。 仕事への想いについて、西村さんと普段からふざけ合ってお互いを高め合っている合同会社Light gear代表の山本卓が話を聞きました 窮屈。言い訳。自暴自棄。 “自分”を見失った“暗黒期”。 【インタビューに答えてくれる株式会社すみなす代表 西村史彦さん】 ――西村さんから「生きづらさ」という言葉をよく聞きます。どんな子供時代、青春時代を過ごしてきたんですか? 西村史彦(以下、西村) 小学校1年生の頃、佐賀市内にある『古賀英語道場』『和道流古賀空手道場』に通っていたのですが、そこでは道場生が演劇の舞台に立つ「英語劇祭」というものがありました。配役を決める時はいつも「僕が主役だ!」と真っ先に手を挙げる子供、つまり天性の目立ちたがり屋でした。高校はバンドに明け暮れ、大学は壁に絵を描く「グラフィティアーティスト」を夢見て芸術学部に進みました。24歳の頃にはカナダで暮らしながら、レゲエを歌い、地元のバーなどで活動していたんです。 ――目立つことに恥ずかしさは感じませんでしたか? 西村 もともと 「ふざけていないと生きていけない」 タイプなんだと思います。そんな日々を過ごしていた私ですが、ある日、「母が倒れそうだから、帰国して仕事を手伝ってやれ」と連絡をもらいました。やりたいことがあったので、一度は断りました。でも、母のことはやはり心配なので、帰国を決めました。 ――お母様は大丈夫でしたか? 西村 いや、それがですね…。心配で急いで帰国して、家の扉を開けてびっくり仰天しました。母は「倒れそう」どころか、すごく元気でピンピンしていました。その瞬間、「あ、ボクはだまされたんだ」と理解しました(笑)。それからは、母が経営していた高齢者介護施設で仕事を手伝うことになりました。 嫌々ではありましたが、自分の中で覚悟を決めて介護の世界へ飛び込みました。 仕事をしていくにつれて「介護の勉強しっかりしよう」と思うようになり、「社会福祉主事」という資格を取ることを決めました。でも、最初に心が折れました。 ―やはり仕事と勉強の両立って難しかったということですか? 西村 いやいや…通信教育で使う教材が大量すぎて(笑)。段ボールに入って送られてきた膨大な量の教材を目の当たりして、「俺、無理よ」ってがく然としちゃいましたね。で、その直後のことでした。大量の教材を前にがく然としている私に、当時は付き合っていた嫁さんがよってきて、こう告げられました。「子供ができたの」って。 「え?俺、父親になるの?!こんなに教材あるのに?!」って、 もう、めちゃくちゃテンパりましたね! 【インタビュー中の間に、ふざけ顔を入れてくる西村さん】 ――西村さんらしいエピソードですね(笑)。ということは、その時期にお子さんが奥様のお腹の中にいることがわかったんですね。 西村 そうです。僕が27歳の時、待望の第一子が誕生しました。ただ、息子には障がいがありました。その障がいは、 医師からも「世界的にあまり例がない」と言われました。息子は足の骨が折れた状態で生まれたてきたのです。そして骨はくっ付きませんでした。 「山登りを一緒にできないんだ」「温泉に一緒に入ることが出来ないかもしれない」「なんで息子にだけ…」。僕は息子が置かれた現実を受け止めることができずにいました。 ――西村さんはカナダから帰国しての9年間を「人生の暗黒期」と表現されていますよね。 西村 介護の仕事も資格を取ろうとしたこともあるんですが、嫌々やっていたこともありましたし、息子の障がいという受け止めきれない現実にも直面しました。自分さえも見失っていたんだと思います。さらに、自分にとって悔やんでも悔やみきれない出来事があったのもこの時期でした。 ――悔やみきれない出来事とは? 西村 29歳ごろのことです。僕は介護の仕事をしながら、心理カウンセラーの資格取るために博多に通う生活をしていました。日々の仕事に追われている時期に、昔から仲が良かった友達の姉ちゃんから「弟が最近ちょっと鬱っぽいから、遊びに連れて行ってあげてくれない?」と電話がありました。友達の声を聞くと「確かに元気がないなあ」と感じました。でも、私自身、仕事が忙しかったこともあって「近いうちに風呂でもいこうや」といって電話を切ってしまいました。 友人が亡くなったことを知ったのはその数日後のことでした。実際に銭湯に誘うために電話をした時、その日に友人が電車に飛び込んで亡くなったことを伝えられました。パニックになって、「なんであの時、すぐに駆け付けなかったんだ」「なんで助けてあげれなかったんだ」と、自分を責めました。僕はカナダから帰国してからというものの、社会の幅をものすごく窮屈に感じるようになっていました。だからといって、社会の幅を広げるようなことはせず、いろんなことを言い訳して、しょぼくれていて…。この生きづらい社会に、自暴自棄となって “自分という存在”が分からなくなっていました。 「人間は表裏一体」息子が引き金を引いてくれた。本来の自分の姿。 【愛してやまない息子さんとの2ショット】 ――どん底からの転機になった出来事は、なんだったんですか? 西村 生きづらさから自分自身を見失ってしまった9年間。救ってくれたのが、妻であり、息子の存在でした。ある夜、妻や息子の寝顔を横から眺めていて気がついたのです。 「息子が障がいを持って生まれてきたことに、誰よりもショックを受けたのは僕じゃない。お腹で繋がっていた嫁さんなんだ」 二人の幸せそうな寝顔を見ながら、「このままどん底に落ちている場合じゃない。自分自身が動かないと人生は好転しない」、そう思い立ったんです。そんな時、突然、ジャマイカの海辺の風景が頭に思い浮かびました。 ジャマイカは、カナダから帰国する際に立ち寄りました。視界いっぱいに広がる水平線。海と空の二分された青い世界。その情景は人間そのものに感じました。 凹んでいるところもあれば、突き抜けているところもある。人間って表裏一体なのだと。 息子は、世界的に例のないスペシャルなものを持って生まれてくれた。「こんな特別な、すごい事はない」と思えた んです。それがどん底から這い上がった転換点になりました。 ――裏と表。相反するものが一枚のキャンバスに描かれているような衝撃があったわけですね。 【カナダの砂浜から見せる水平線の様子】 西村 息子が「人間って表裏一体なのだ」ということを証明してくれるかのような出来事がありました。保育園に息子を迎えに行った時のことでした。息子は僕の声が全く聞こえないぐらい集中していました。レゴブロックで、ヒーローの変身ベルトを作っていたんです。その変身ベルトが秀逸で、発想がめちゃくちゃ面白かった。僕には思いつかないアイデアがたくさん詰まっていました。 【モノ作りが大好きな息子さん】 息子が熱中する姿を見て、「好きな事、得意な事をやり続けてほしいな」と思いました。 突き抜けた部分を社会に活かし、生きづらいと感じている人が社会的な役割を当たり前に与えられる世界を作りたい。そして「好きや得意を生かす。そのことこそが、その人が持つ社会的な役割になるんじゃないか」と考えるようになりました。そう思って自分を振り返ってみたら「俺は好きとか得意とか全くいかせてない…」という見て見ぬ振りをしていた自分に改めて気づき落胆しました。 そこから「障がいのある人が『好き』を『武器』に変えて自分の土俵で戦える場を作りたい」と決意 したんです。親父として息子に「息が詰まるような辛い表情を浮かべて生きる親父の背中を見せていいわけないじゃないか。楽しんで生きている自分を見せるべきだ」と。学生時代に僕の中にあった「本来の自分」という存在を出してくれた。 息子が、引き金を引いてくれた んです。それからは、とにかく自分の殻をぶち破っていくかのように“起業”という道をただひたすらに突っ張り始めました。 【後編】では、ジーニアス立ち上げ以降のお話を伺います。
いろいろTV、福岡の いろいろ株式会社 が運営するWeb番組。同社代表の青木大一郎さんが「気になる人にいろいろなことを聞く」という企画です。この番組に、1月から何度か、佐賀の起業家や産業DX・スタートアップ推進グループが「出演」。このうち、11月のWIDEの北原さんのアーカイブが公開されました。今だから語る起業への秘話、事業に込めた思いややってみて気づいたこと、考えたことなど満載です。 Web記事及びアーカイブ、ぜひどうぞご覧ください。 2023年11月15日 株式会社WIDE 北原誠大さん「 『学校のイマ!』部活動の地域移行の実際!! 」 2023年7月18日 株式会社すみなす 西村史彦さん「 西村さんがテキトーク、始めた理由って? 」 2023年5月24日 佐賀県産業DX・スタートアップ総括監 北村和人「 県庁のおしごと「佐賀にしかない機会を」、産業DXとスタートアップ 」 2023年4月11日 合同会社Light Gear 山本卓さん「 佐賀で行う地域おこしとコミュニティづくりの真髄って? 」 2023年3月29日 フレル株式会社 江口昌紀さん「 考えることは楽しい!を増やす ゲーム開発への思 2023年1月17日 株式会社Retocos 三田かおりさん「 耕作放棄地で離島を活性化!?島×ものづくりへの情熱 」
2023.12.01
11月30日(木)にStartup Gateway SAGAコミュニティイベント「Ask A Professional!」を開催しました! きざしデザイン合同会社の代表月原直哉さんをお招きし、 15時からは今年度のアクセラレーションプログラムに採択された5名との合同メンタリングが始まりました。 採択者それぞれによるプレゼンのあとに、月原さんとの壁打ちが行われ、5名それぞれが考え、悩みながら答えを導き出していました。 18時からは「事業作りに必要な考え方」というテーマで、コミュニケーションを取りながらのセッションがスタート。 「起業・事業創出というハードルが高いチャレンジのためには、バランスホイールを用いながら自身のアイデンティティの書き換えが必要」など、月原さんの実体験を基にした話を参加者はそれぞれインプットされている様子でした。 参加者同士の意見交換や質問も多く飛び交い、盛況のうちに終了いたしました。 月原さん・ご来場いただいた皆様ありがとうございました! 12月にはMIX NUTS BAR第2弾も開催予定です🥜 仲間を集める場として、知らない考えに触れる場として、挑戦のやる気を出す場として、使っていただければと思います!🎄 詳細は コチラ
2023.12.01
株式会社SA-GA(エスエー・ジーエー)の森山さん、先日、佐賀新聞の連載「 スタートアップの現場から 」に取り上げられたところですが、11月15日に開催された佐賀大学、株式会社佐賀銀行、株式会社佐銀キャピタル&コンサルティングによる佐賀大学認定ベンチャーを対象とした第1回アイデアピッチコンテストにおいて最優秀賞を受賞しました! 「もっと便利な徴収システムがあれば」との学校現場の嘆きの声をビジネスチャンスととらえ、開発された徴収金会計業務を自動化するサービス「学校Pay」を2019年に開発。年間で8割の集金業務を軽減できた学校もあるほど画期的なシステムで県内での導入が進んでいて県外からの問い合わせも増えているとのことです。 今年度佐賀県のStartup ConnectやエビチャレSpacialにも採択され支援を行っている最中での嬉しい報告。この受賞をきっかけに、さらに飛躍していってほしいです🚀 佐賀大学プレスリリース 佐賀銀行プレスリリース
2023.11.29
WIRED(ワイアード)は、未来をプロトタイプするテックカルチャー・メディアとしてアメリカ合衆国西海岸のサンフランシスコで1993年に創刊されました。現在はアメリカ合衆国のほかに日本など6カ国/地域で発行され、テクノロジー、ビジネス、カルチャー、ライフスタイルなど幅広い分野でオンラインメディア、雑誌事業などを展開しています。 そのような世界で最も影響力のあるテックカルチャーメディア『WIRED』日本版が、経済活動を通じて人々のつながり、社会、生態系、経済システムを再生する企業や団体を「THE REGENERATIVE COMPANY(リジェネラティブ・カンパニー)」と定義づけ、持続可能を目指した「サステナブル」を超え、自然環境が本来もつ生成力を取り戻すことで再生につなげていく「リジェネラティブ」を実践する次世代カンパニーを表彰するアワード「 THE REGENERATIVE COMPANY AWARD(リジェネラティブ・カンパニー・アワード) 」を始動しました。 本アワード初開催となる今回、総勢40名のアドバイザーによる推薦のもと、8つのリジェネラティブ・カンパニーが決定、うち 株式会社Retocos (佐賀県唐津市)も受賞カンパニーとして選ばれました。 今後、WIRED.jpにて各カンパニーへのインタビュー記事が配信予定とのことで、掲載がとても楽しみです。 Retocosについて 同社代表の三田さんが、一般社団法人ジャパン・コスメティックセンターでの勤務をきっかけに、漁業の衰退や人口減少等、離島が抱える様々な課題に直面。課題解決にむけて、令和2年7月に特定非営利活動法人リトコスを立ち上げ、さらに令和3年12月に株式会社Retocosを設立されました。 その後、離島における持続可能な経済活動の実現と自然との共生を目指し、天然由来のコスメ原料を用いた化粧品等の企画提案や原料供給などに取り組まれてきました。大手コスメブランドやアパレルブランド等へ幅広く原料を供給する傍ら、エシカルツーリズム(コスメづくり等ができる観光客にむけた体験プログラム)に取り組み、島の関係人口を増やすことで、人と自然が共生する地域づくりモデルの構築に挑まれています。 選出理由 ・ いままで見過ごされていた地域資源の魅力を再解釈し発信するとともに、企業に向けては資源利用による商品開発のコンサルティングを実施している ・ 化粧品の販売によって調達した資金を、耕作放棄地の再利用に充てることでリジェネラティブな循環を生み出す ・ 「エシカルツーリズム」のプログラムを展開することで、地域に負担のかからない観光のかたちを模索するとともに、化粧品のみに依存しない多元的な経済活性化のモデル構築を目指す 【参考】 受賞カンパニー ・ 株式会社ガルデリア(東京都) ・ 株式会社サザビーリーグ リトルリーグカンパニー(東京都) ・ 株式会社Sunda Technology Global(京都府) ・ ZEROCO株式会社(東京都) ・ 株式会社フェイガー(東京都) ・ 一般社団法人for Cities(東京都) ・ 株式会社/NPO法人リトコス(佐賀県) ・ 株式会社WiseVine(愛媛県) リジェネラティブ・カンパニー・アワードウェブサイト https://wired.jp/article/the-regenerative-company-award-2023 https://wired.jp/article/the-regenerative-company-award-2023-result/
2023.11.24