記事:山本卓 「アーティストの作品は見るだけではなく身に着けて楽しみます」と話す西村史彦さん(37)は、生きづらさを面白さに転換する』をビジョンに掲げる株式会社すみなすの代表だ。すみなすが開所した就労継続支援B型事業所「GENIUS」(ジーニアス)には、メンタルの不調など、日常生活で何らかのハンディを抱える方が、アーティストとして所属している。インタビュー前半では、西村さんがジーニアスを立ち上げるまでのお話をお聞きしましたが、後半ではジーニアス立ち上げ以降のお話を合同会社Light gear代表の山本卓が伺いました。 向かい風の中でも、際立つ存在となった「GENIUS」 【事業所入り口に飾られた看板もGENIUS所属アーティストの作品】 ――GENIUSはアート活動をベースに、利用者自身の強みを活かしたお仕事ができる就労継続支援B型事業所。西村さん自身も学生時代にアートを学んでいたようですが、「アートを活かした支援」に着目したきっかけは何だったですか。 西村史彦(以下、西村) きっかけは、福岡の商業施設で偶然見かけたアート作品です。タイル一枚一枚に作品が描かれてあるもので、「すごくカッコいいな」と思いました。調べてみると、描いたのは障がいを持った人だったんです。当時、高齢者介護の仕事をしていた僕に衝撃が走りました。 同じ福祉業界に、高齢者介護とはまた違う「支援の在り方」があったんだ、と。このアートとの出会いが、自分の中で今のGENIUSに繋がる種火になりました 。 ――開所にあたり、西村さんのGENIUS構想は佐賀でどんなスタートを切りましたか? 西村 構想自体は2019年4月に完成しました。開所にあたり行政の福祉部門に相談に行ったのですが、「ダメだ」と門前払いでした。理由は明確で、就労継続支援B型が飽和状態だったこと、アートでの収益化の根拠が見えないことでした。行政からは「収益化の根拠を示せ」と言われました。事業も始めていない時期で収益性の根拠も見えていない状態でした。今、振り返れば、しっかりとした事業計画を立てていない自分の計画の甘さはよくわかるのですが、その時は、「 わかりました。介護事業所のお掃除の仕事をします! 」とかなり強気に計画書を提出しました。 ――強行突破でしたね。 西村 なんとか認可が下り、介護事業所の掃除ではなく、アートを通した支援を始めたんですが…。すぐに行政側の発覚するところになり、ひどく怒られました。ただ、その時はアートでの収益化について、 言語化も数値化も出来ていなかったのですが、自信と確信はあったので「1年後を見ていてほしい」と行政側に伝えました。 【緻密で立体的なオブジェ。その素材からインスパイアを受けている作品も】 ――アートの領域で事業が軌道に乗っているGENIUSですが、アート領域はどのようにして伸ばしていったのですか? 西村 2019年11月に株式会社すみなすを設立し、2020年2月に就労継続支援B型施設GENIUSを開きました。開所は新型コロナウィルス流行と重なってしまったのですが、この事態をチャンスだと捉え、しっかり事業展開するための準備期間としました。まずは起業セミナーに参加したり、青森県で同様の活動をしている事業所に視察をしに行ったり。 福祉行政を頼るばかりでなく、収益性を考えるのであれば同じ行政でも産業政策をやっている部門だと思い 、県庁の産業DX・スタートアップ推進グループ(当時は産業DX・スタートアップ推進室)に相談にのってもらっていました。そして、同グループが実施している起業家支援プログラムでアートの事業化について、さまざまな専門家にビジネスをブラッシュアップしてもらいました。プランのプレスリリースも出しました。そうこうしているうちに、開所前にも関わらずテレビや新聞などの取材がまいこむようになりました。ブランド構想やレンタルアート構想などを公開していき、多くのメディアに掲載されると「この前新聞で見たよ」などと福祉行政の担当者が声をかけてくれるようになりました。「アートと就労継続支援」という構想はまだまだ際立つものがあったんだと思います。でもそれは数字も伴わなければ、駄目だったとは思いますけどね。 「障がい」という言葉の本当の意味。 【アトリエに飾られたたくさんの作品を眺めながら微笑む西村さん】 ――多様性が叫ばれる昨今の日本社会も、「障がい者」というフィルターがあると、なんとなく距離を置かれるようなことはまだあると思います。そんな社会でGENIUSを始めていくことのへの不安はありましたか? 西村 僕は初めからアートの可能性を信じていましたし、何よりこの事業は僕にしかできないと確信していました。「障がい」という言葉にも思うことがあります。利用者と表現する方もいるかと思いますが、僕たちは 障がいの有無ではなく役割で区別したいという考えから彼らを「アーティスト」と呼んでいます 。人々の 普遍的な課題だと思いますが、人は本質よりも名付けられた「言葉」で受け止めがち ですよね。まさに「障害」という言葉もそうだと思います。その言葉の本質まで触れずに、従来のニュアンスで受け止める。 GENIUS立ち上げ前から僕は「芸術において障がいも障壁もないんだ」と強く発信してきました。なので僕は「障がい」という特徴には、全然着目をしてない。 障がい者とは思っていなくて、「特性強めだよね。君達」って思ってます。 【アーティストがカラーペンを手に作品を描く様子】 かと言って僕らが何もせず、何の助け合いもなしにアーティストが現代社会の中に放り込まれたら、それは彼らの「生きづらさ」に直結します。だから、本質に触れる機会を生み出したいんです。 障がいの特性は裏を返せば、才能になるという本質を知っているから。 人間は表裏一体なんです。社会も当事者も、「障がい」っていうくくりで受け止めるから、不便なもののように捉えちゃう。だからこそ僕は、「アーティスト達」が作っている作品なんだ、という制作者の本質にこだわっているんです。 ――そんな西村さんにとって、アートの醍醐味とは? 西村 アートには、ストーリーがあります。ビジュアル的に飛び込んでくる面白さもあるけど、背景にあるストーリーを知って鑑賞してほしい。 ストーリーとアートが掛け算になった時に、予期していなかった発見や驚き、感動が生まれる。アートは、表現方法の一つであると共に、価値観や世界観、生き方そのものだと思う んです。だからこそGENIUSに所属するアーティストの作品は人の心に響く。そう感じています。 僕は今、「生きづらさは転換できる」ということを証明し続けている。 【アート作品一つ一つに物語がある。ストーリーを知るたびに心が踊る】 ――アーティストの生きづらさの原因は何だと思いますか? 西村 色々あると思います。それは自分への自信の無さだったり、人は社会の作った枠に当てはまらなきゃいけないという強迫観念だったり。それが生き方の選択肢の幅を狭めてしまう原因になり、生きづらさとなると思います。 事業を始めた頃、友達や行政から心配されました。行政側は、アートと就労支援が上手く合致するイメージがなかったのでしょう。もし潰れたりしたら、利用している方々の行く場所がなくなってしまう、という心配があるように感じました。友達からは、僕の「興味の対象が変わりやすく継続が苦手な性格」を見抜かれていましたし。でも今は周囲も「ようやく、史彦らしさが戻ってきたね」と言ってくれます。見返すこととは違うかもしれませんが、ようやく本当の自分を見せられているような気がします。 僕は以前まで「自分は何もできない人間だ」とか、「社会には価値のない人間かもしれない」なんて思っていました。でも嫌々始めた介護の仕事、息子の障がい、友達の死――。いろんな出来事を経験して、僕自身が「生きづらさ」を面白さに転換できたのだから、その生き様を通して 「面白さへの転換」を証明することで、生きづらさを感じてつらくなっている誰かが勇気を踏み出す一歩になれたら と思っています。 ――GENIUSを通じて、西村さん自身が変化したことは? 西村 僕はGENIUSを通して、生きづらさをおもしろさに転換することができています。落ち着きのなさは、アクションを起こせる力へ変わりました。興味の移りやすさは変化をし続けられる力に、僕の苦しい経験や息子の障がいは、人を巻き込む力に変わった。僕は今、生きづらさは転換できると証明し続けています。僕の生きづらかった人生はすべて、面白さに変化していますね。 今日も生きづらさと共に。 【制作中の作品を手に撮影するも、乾いておらず焦っていた西村さん】 ―-西村さんにとってGENIUSとはどんな場所なんですか? 西村 アート制作環境を提供している場所ですが、それが本筋でやっているわけではないと思っていて、 世界中の普遍的な生きづらさにアプローチしていく「生き方提案」をする場 だと思っています。ウォシュレットは、元々障がいのある方が障害のある人のために作ったものが、今や一般化されている。それと同じように、障がいを持った人のために作られたGENIUSが、 大人も子供も男女もない、すべての人の生きづらさの障壁を外す役割となり生きづらさを面白さに転換できる場であればいいな と思います。 【ひとつひとつの言葉に力強さを感じたインタビューでした】 ――GENIUSを運営していく中で大切にしてる想いはなんでしょう? 西村 GENIUSは寄り添う支援ではなく「伴走支援」です。言い方は悪くなりますが、今まさに生きづらさを感じている人というのは、川でおぼれている状態に近い。自分が上を向いているのか下を向いているのか、どこにいるのかがわからない。だから、「ここが陸なんだよ」って知らせて、陸に引き上げるような作業です。時には寄り添うことも必要なのかもしれませんが、生きづらさって絶対になくなりません。光と影のように、切っても切り離せないもの。だったら、生きづらさを受け止めつつも視点を変えておもしろさに転換し、窮屈や退屈でいっぱいの強迫観念の中から、引き上げる。 表裏一体の矛盾を愛することを大切に しています。その姿勢が伝われば嬉しいですね。 ――最後に、これからの目標を聞かせてください。 西村 いつか、誰もが生きづらさを面白おかしく転換できて、自分らしく生きられている世界になって、GENIUSの事業支援が必要なくなるような世界になってほしい。それが理想です。だから僕は生きづらさと共に、今日も仕事をしています。 ――今日はお忙しい中、貴重なお話ありがとうございました。
「ふざけていないと生きていられない!」と断言する西村史彦さん(37)。 『生きづらさを面白さに転換する』をビジョンに掲げる株式会社すみなすの代表だ。すみなすが開所した就労継続支援B型事業所「GENIUS」(ジーニアス)には、メンタルの不調など、日常生活で何らかのハンディを抱える方が、アーティストとして所属している。 ジーニアス所属アーティストの作品は今、佐賀県内だけでなく、世界に活躍の場を広げつつある。そんなアーティストたちをプロデュースする西村さんだが、自分自身を見失い、本人も「暗黒を生きていた」という9年間が存在する。友人の自死、障がいを持って生まれてきた息子の存在。いつも見せる屈託のない笑顔の裏には、「生きづらさと共に」歩んできた西村さん自身の物語があった。 仕事への想いについて、西村さんと普段からふざけ合ってお互いを高め合っている合同会社Light gear代表の山本卓が話を聞きました 窮屈。言い訳。自暴自棄。 “自分”を見失った“暗黒期”。 【インタビューに答えてくれる株式会社すみなす代表 西村史彦さん】 ――西村さんから「生きづらさ」という言葉をよく聞きます。どんな子供時代、青春時代を過ごしてきたんですか? 西村史彦(以下、西村) 小学校1年生の頃、佐賀市内にある『古賀英語道場』『和道流古賀空手道場』に通っていたのですが、そこでは道場生が演劇の舞台に立つ「英語劇祭」というものがありました。配役を決める時はいつも「僕が主役だ!」と真っ先に手を挙げる子供、つまり天性の目立ちたがり屋でした。高校はバンドに明け暮れ、大学は壁に絵を描く「グラフィティアーティスト」を夢見て芸術学部に進みました。24歳の頃にはカナダで暮らしながら、レゲエを歌い、地元のバーなどで活動していたんです。 ――目立つことに恥ずかしさは感じませんでしたか? 西村 もともと 「ふざけていないと生きていけない」 タイプなんだと思います。そんな日々を過ごしていた私ですが、ある日、「母が倒れそうだから、帰国して仕事を手伝ってやれ」と連絡をもらいました。やりたいことがあったので、一度は断りました。でも、母のことはやはり心配なので、帰国を決めました。 ――お母様は大丈夫でしたか? 西村 いや、それがですね…。心配で急いで帰国して、家の扉を開けてびっくり仰天しました。母は「倒れそう」どころか、すごく元気でピンピンしていました。その瞬間、「あ、ボクはだまされたんだ」と理解しました(笑)。それからは、母が経営していた高齢者介護施設で仕事を手伝うことになりました。 嫌々ではありましたが、自分の中で覚悟を決めて介護の世界へ飛び込みました。 仕事をしていくにつれて「介護の勉強しっかりしよう」と思うようになり、「社会福祉主事」という資格を取ることを決めました。でも、最初に心が折れました。 ―やはり仕事と勉強の両立って難しかったということですか? 西村 いやいや…通信教育で使う教材が大量すぎて(笑)。段ボールに入って送られてきた膨大な量の教材を目の当たりして、「俺、無理よ」ってがく然としちゃいましたね。で、その直後のことでした。大量の教材を前にがく然としている私に、当時は付き合っていた嫁さんがよってきて、こう告げられました。「子供ができたの」って。 「え?俺、父親になるの?!こんなに教材あるのに?!」って、 もう、めちゃくちゃテンパりましたね! 【インタビュー中の間に、ふざけ顔を入れてくる西村さん】 ――西村さんらしいエピソードですね(笑)。ということは、その時期にお子さんが奥様のお腹の中にいることがわかったんですね。 西村 そうです。僕が27歳の時、待望の第一子が誕生しました。ただ、息子には障がいがありました。その障がいは、 医師からも「世界的にあまり例がない」と言われました。息子は足の骨が折れた状態で生まれたてきたのです。そして骨はくっ付きませんでした。 「山登りを一緒にできないんだ」「温泉に一緒に入ることが出来ないかもしれない」「なんで息子にだけ…」。僕は息子が置かれた現実を受け止めることができずにいました。 ――西村さんはカナダから帰国しての9年間を「人生の暗黒期」と表現されていますよね。 西村 介護の仕事も資格を取ろうとしたこともあるんですが、嫌々やっていたこともありましたし、息子の障がいという受け止めきれない現実にも直面しました。自分さえも見失っていたんだと思います。さらに、自分にとって悔やんでも悔やみきれない出来事があったのもこの時期でした。 ――悔やみきれない出来事とは? 西村 29歳ごろのことです。僕は介護の仕事をしながら、心理カウンセラーの資格取るために博多に通う生活をしていました。日々の仕事に追われている時期に、昔から仲が良かった友達の姉ちゃんから「弟が最近ちょっと鬱っぽいから、遊びに連れて行ってあげてくれない?」と電話がありました。友達の声を聞くと「確かに元気がないなあ」と感じました。でも、私自身、仕事が忙しかったこともあって「近いうちに風呂でもいこうや」といって電話を切ってしまいました。 友人が亡くなったことを知ったのはその数日後のことでした。実際に銭湯に誘うために電話をした時、その日に友人が電車に飛び込んで亡くなったことを伝えられました。パニックになって、「なんであの時、すぐに駆け付けなかったんだ」「なんで助けてあげれなかったんだ」と、自分を責めました。僕はカナダから帰国してからというものの、社会の幅をものすごく窮屈に感じるようになっていました。だからといって、社会の幅を広げるようなことはせず、いろんなことを言い訳して、しょぼくれていて…。この生きづらい社会に、自暴自棄となって “自分という存在”が分からなくなっていました。 「人間は表裏一体」息子が引き金を引いてくれた。本来の自分の姿。 【愛してやまない息子さんとの2ショット】 ――どん底からの転機になった出来事は、なんだったんですか? 西村 生きづらさから自分自身を見失ってしまった9年間。救ってくれたのが、妻であり、息子の存在でした。ある夜、妻や息子の寝顔を横から眺めていて気がついたのです。 「息子が障がいを持って生まれてきたことに、誰よりもショックを受けたのは僕じゃない。お腹で繋がっていた嫁さんなんだ」 二人の幸せそうな寝顔を見ながら、「このままどん底に落ちている場合じゃない。自分自身が動かないと人生は好転しない」、そう思い立ったんです。そんな時、突然、ジャマイカの海辺の風景が頭に思い浮かびました。 ジャマイカは、カナダから帰国する際に立ち寄りました。視界いっぱいに広がる水平線。海と空の二分された青い世界。その情景は人間そのものに感じました。 凹んでいるところもあれば、突き抜けているところもある。人間って表裏一体なのだと。 息子は、世界的に例のないスペシャルなものを持って生まれてくれた。「こんな特別な、すごい事はない」と思えた んです。それがどん底から這い上がった転換点になりました。 ――裏と表。相反するものが一枚のキャンバスに描かれているような衝撃があったわけですね。 【カナダの砂浜から見せる水平線の様子】 西村 息子が「人間って表裏一体なのだ」ということを証明してくれるかのような出来事がありました。保育園に息子を迎えに行った時のことでした。息子は僕の声が全く聞こえないぐらい集中していました。レゴブロックで、ヒーローの変身ベルトを作っていたんです。その変身ベルトが秀逸で、発想がめちゃくちゃ面白かった。僕には思いつかないアイデアがたくさん詰まっていました。 【モノ作りが大好きな息子さん】 息子が熱中する姿を見て、「好きな事、得意な事をやり続けてほしいな」と思いました。 突き抜けた部分を社会に活かし、生きづらいと感じている人が社会的な役割を当たり前に与えられる世界を作りたい。そして「好きや得意を生かす。そのことこそが、その人が持つ社会的な役割になるんじゃないか」と考えるようになりました。そう思って自分を振り返ってみたら「俺は好きとか得意とか全くいかせてない…」という見て見ぬ振りをしていた自分に改めて気づき落胆しました。 そこから「障がいのある人が『好き』を『武器』に変えて自分の土俵で戦える場を作りたい」と決意 したんです。親父として息子に「息が詰まるような辛い表情を浮かべて生きる親父の背中を見せていいわけないじゃないか。楽しんで生きている自分を見せるべきだ」と。学生時代に僕の中にあった「本来の自分」という存在を出してくれた。 息子が、引き金を引いてくれた んです。それからは、とにかく自分の殻をぶち破っていくかのように“起業”という道をただひたすらに突っ張り始めました。 【後編】では、ジーニアス立ち上げ以降のお話を伺います。