記事一覧

「“生きづらさ”を“面白さ”に変える仕事をしています」株式会社すみなす 代表取締役 西村史彦さん【前編】

「“生きづらさ”を“面白さ”に変える仕事をしています」株式会社すみなす 代表取締役 西村史彦さん【前編】

「ふざけていないと生きていられない!」と断言する西村史彦さん(37)。 『生きづらさを面白さに転換する』をビジョンに掲げる株式会社すみなすの代表だ。すみなすが開所した就労継続支援B型事業所「GENIUS」(ジーニアス)には、メンタルの不調など、日常生活で何らかのハンディを抱える方が、アーティストとして所属している。 ジーニアス所属アーティストの作品は今、佐賀県内だけでなく、世界に活躍の場を広げつつある。そんなアーティストたちをプロデュースする西村さんだが、自分自身を見失い、本人も「暗黒を生きていた」という9年間が存在する。友人の自死、障がいを持って生まれてきた息子の存在。いつも見せる屈託のない笑顔の裏には、「生きづらさと共に」歩んできた西村さん自身の物語があった。 仕事への想いについて、西村さんと普段からふざけ合ってお互いを高め合っている合同会社Light gear代表の山本卓が話を聞きました 窮屈。言い訳。自暴自棄。 “自分”を見失った“暗黒期”。 【インタビューに答えてくれる株式会社すみなす代表 西村史彦さん】 ――西村さんから「生きづらさ」という言葉をよく聞きます。どんな子供時代、青春時代を過ごしてきたんですか? 西村史彦(以下、西村) 小学校1年生の頃、佐賀市内にある『古賀英語道場』『和道流古賀空手道場』に通っていたのですが、そこでは道場生が演劇の舞台に立つ「英語劇祭」というものがありました。配役を決める時はいつも「僕が主役だ!」と真っ先に手を挙げる子供、つまり天性の目立ちたがり屋でした。高校はバンドに明け暮れ、大学は壁に絵を描く「グラフィティアーティスト」を夢見て芸術学部に進みました。24歳の頃にはカナダで暮らしながら、レゲエを歌い、地元のバーなどで活動していたんです。 ――目立つことに恥ずかしさは感じませんでしたか? 西村 もともと 「ふざけていないと生きていけない」 タイプなんだと思います。そんな日々を過ごしていた私ですが、ある日、「母が倒れそうだから、帰国して仕事を手伝ってやれ」と連絡をもらいました。やりたいことがあったので、一度は断りました。でも、母のことはやはり心配なので、帰国を決めました。 ――お母様は大丈夫でしたか? 西村 いや、それがですね…。心配で急いで帰国して、家の扉を開けてびっくり仰天しました。母は「倒れそう」どころか、すごく元気でピンピンしていました。その瞬間、「あ、ボクはだまされたんだ」と理解しました(笑)。それからは、母が経営していた高齢者介護施設で仕事を手伝うことになりました。 嫌々ではありましたが、自分の中で覚悟を決めて介護の世界へ飛び込みました。 仕事をしていくにつれて「介護の勉強しっかりしよう」と思うようになり、「社会福祉主事」という資格を取ることを決めました。でも、最初に心が折れました。 ―やはり仕事と勉強の両立って難しかったということですか? 西村 いやいや…通信教育で使う教材が大量すぎて(笑)。段ボールに入って送られてきた膨大な量の教材を目の当たりして、「俺、無理よ」ってがく然としちゃいましたね。で、その直後のことでした。大量の教材を前にがく然としている私に、当時は付き合っていた嫁さんがよってきて、こう告げられました。「子供ができたの」って。 「え?俺、父親になるの?!こんなに教材あるのに?!」って、 もう、めちゃくちゃテンパりましたね! 【インタビュー中の間に、ふざけ顔を入れてくる西村さん】 ――西村さんらしいエピソードですね(笑)。ということは、その時期にお子さんが奥様のお腹の中にいることがわかったんですね。 西村 そうです。僕が27歳の時、待望の第一子が誕生しました。ただ、息子には障がいがありました。その障がいは、 医師からも「世界的にあまり例がない」と言われました。息子は足の骨が折れた状態で生まれたてきたのです。そして骨はくっ付きませんでした。 「山登りを一緒にできないんだ」「温泉に一緒に入ることが出来ないかもしれない」「なんで息子にだけ…」。僕は息子が置かれた現実を受け止めることができずにいました。 ――西村さんはカナダから帰国しての9年間を「人生の暗黒期」と表現されていますよね。 西村 介護の仕事も資格を取ろうとしたこともあるんですが、嫌々やっていたこともありましたし、息子の障がいという受け止めきれない現実にも直面しました。自分さえも見失っていたんだと思います。さらに、自分にとって悔やんでも悔やみきれない出来事があったのもこの時期でした。 ――悔やみきれない出来事とは? 西村 29歳ごろのことです。僕は介護の仕事をしながら、心理カウンセラーの資格取るために博多に通う生活をしていました。日々の仕事に追われている時期に、昔から仲が良かった友達の姉ちゃんから「弟が最近ちょっと鬱っぽいから、遊びに連れて行ってあげてくれない?」と電話がありました。友達の声を聞くと「確かに元気がないなあ」と感じました。でも、私自身、仕事が忙しかったこともあって「近いうちに風呂でもいこうや」といって電話を切ってしまいました。 友人が亡くなったことを知ったのはその数日後のことでした。実際に銭湯に誘うために電話をした時、その日に友人が電車に飛び込んで亡くなったことを伝えられました。パニックになって、「なんであの時、すぐに駆け付けなかったんだ」「なんで助けてあげれなかったんだ」と、自分を責めました。僕はカナダから帰国してからというものの、社会の幅をものすごく窮屈に感じるようになっていました。だからといって、社会の幅を広げるようなことはせず、いろんなことを言い訳して、しょぼくれていて…。この生きづらい社会に、自暴自棄となって “自分という存在”が分からなくなっていました。 「人間は表裏一体」息子が引き金を引いてくれた。本来の自分の姿。 【愛してやまない息子さんとの2ショット】 ――どん底からの転機になった出来事は、なんだったんですか? 西村 生きづらさから自分自身を見失ってしまった9年間。救ってくれたのが、妻であり、息子の存在でした。ある夜、妻や息子の寝顔を横から眺めていて気がついたのです。 「息子が障がいを持って生まれてきたことに、誰よりもショックを受けたのは僕じゃない。お腹で繋がっていた嫁さんなんだ」 二人の幸せそうな寝顔を見ながら、「このままどん底に落ちている場合じゃない。自分自身が動かないと人生は好転しない」、そう思い立ったんです。そんな時、突然、ジャマイカの海辺の風景が頭に思い浮かびました。 ジャマイカは、カナダから帰国する際に立ち寄りました。視界いっぱいに広がる水平線。海と空の二分された青い世界。その情景は人間そのものに感じました。 凹んでいるところもあれば、突き抜けているところもある。人間って表裏一体なのだと。 息子は、世界的に例のないスペシャルなものを持って生まれてくれた。「こんな特別な、すごい事はない」と思えた んです。それがどん底から這い上がった転換点になりました。 ――裏と表。相反するものが一枚のキャンバスに描かれているような衝撃があったわけですね。 【カナダの砂浜から見せる水平線の様子】 西村 息子が「人間って表裏一体なのだ」ということを証明してくれるかのような出来事がありました。保育園に息子を迎えに行った時のことでした。息子は僕の声が全く聞こえないぐらい集中していました。レゴブロックで、ヒーローの変身ベルトを作っていたんです。その変身ベルトが秀逸で、発想がめちゃくちゃ面白かった。僕には思いつかないアイデアがたくさん詰まっていました。 【モノ作りが大好きな息子さん】 息子が熱中する姿を見て、「好きな事、得意な事をやり続けてほしいな」と思いました。 突き抜けた部分を社会に活かし、生きづらいと感じている人が社会的な役割を当たり前に与えられる世界を作りたい。そして「好きや得意を生かす。そのことこそが、その人が持つ社会的な役割になるんじゃないか」と考えるようになりました。そう思って自分を振り返ってみたら「俺は好きとか得意とか全くいかせてない…」という見て見ぬ振りをしていた自分に改めて気づき落胆しました。 そこから「障がいのある人が『好き』を『武器』に変えて自分の土俵で戦える場を作りたい」と決意 したんです。親父として息子に「息が詰まるような辛い表情を浮かべて生きる親父の背中を見せていいわけないじゃないか。楽しんで生きている自分を見せるべきだ」と。学生時代に僕の中にあった「本来の自分」という存在を出してくれた。 息子が、引き金を引いてくれた んです。それからは、とにかく自分の殻をぶち破っていくかのように“起業”という道をただひたすらに突っ張り始めました。 【後編】では、ジーニアス立ち上げ以降のお話を伺います。

「あしたは、あしたの“香り”が吹く。循環の仕組みづくりを目指す」株式会社Retocos代表

「あしたは、あしたの“香り”が吹く。循環の仕組みづくりを目指す」株式会社Retocos代表

記事:山本卓(合同会社Light gear代表) 「私、型にはまりたくない。というかはまれないんです。空気でありたい」。 そう満面の笑みで話すのは、代表の三田かおりさん(44)。「地域経済の循環。そして持続可能な未来を目指す」をビジョンに掲げ、2021年12月に株式会社Retocos(リトコス)を設立した。高島、神集島、加部島、小川島、加唐島、松島、馬渡島、向島。唐津市にある8つの島を拠点に“島と人”、“自然と産業”を繋ぎ、これらの循環を目指して活動をしている。島の耕作が放棄された土地にホーリーバジルを植え、自生している椿や甘夏といった島の恵みを原材料にしたコスメや香り作り体験会などを行ってきた三田さん。だが、事業が進むごとに変化する環境に戸惑い、周囲からの期待などが混ざり合って “混沌の時期”があったという。そんな三田さんの仕事への想いについて、三田さんと会えばずっと笑い合っているような関係の山本卓が聞きました。 自然や風土など、島でもまったく違う面白さ 【早朝。大きな荷物を持って島に上陸をする三田かおりさん】 ――高島にようやく来れました。今日は結構な大荷物ですね。 三田かおり(以下、三田) 今日から3日間、高島で生活するので、荷物は多めに持ってきました。普段は佐賀市内に娘と住んでいるので、島には通っている状態なんです。でも、もう少ししたら島に移住する予定です。 ――三田さんは「島」のイメージが強いんですけど、もともと「島」で仕事をしたかったんですか? 三田 場所は、どこでも良かったんです。たまたま自分がやりたいことが、 「島という環境だったらできるかも」 と思ったんです。大学卒業後に、外資系化粧品のラグジュアリーブランドの美容部員として働いていたのが、たまたま商工会連合会に転職して、たまたま一般社団法人ジャパン・コスメティックセンター(JCC)のコーディネーターとして声がかかって、たまたま島と関わった。いろいろな「たまたま」が重なった、ただ、それだけなんです。 【唐津から船で10分ほど。気持ちいい港がある高島】 ――島とかかわり出してから、起業を考えたんですか? 三田 商工会連合会に所属している時に、衰退している商店街に人を呼び込むプロジェクトにかかわりました。その時に「地域の人たちで新しい未来を創造していくのってすごく面白い」と感じたんです。そんなある日、コスメで地域活性化をすることを目的としたJCCが立ち上がったんです。そのJCCから声がかかり、それをきっかけに島にかかわることになりました。 島にかかわるようになると、コスメを安定供給するための人材確保の必要性など、いくつも課題が見えてきました。課題解決に向けて活動していくと、共感の輪が広がり、加唐島の椿に可能性を感じていただける方々が増えてきました。すると椿の需要がさらに増え、加唐島だけでは原材料確保が難しくなっていきました。そんなある日、島民から「ほかの島にも椿が自生しているよ」と教えてもらったんです。 ――そこで他の島へ足を運ぶことにしたんですね。 三田 他の島に行ったら、宝物がたくさんあったんです。島にしか咲いていない植物もあれば、土壌の性質や自然、風土――。「島ごとに特性がまったく違う」ことに面白さを感じました。島の魅力に触れたことで、 「島の特性をいかしながら、地域課題を解決して、島の生産力をあげる循環の仕組みづくりをしたい」 と思うようになりました。 ゴミが落ちていたら拾うように、当たり前のことをしているだけなんです 【宝当神社で有名な高島の島民は約200人。歩いて一周50分ほどの小さな島だ】 ――JCCを卒業し、会社ではなくNPOを設立した理由は何だったんですか? 三田 起業って、初めての経験なので分からないことだらけ。当時の私は 「地域課題を解決するならば、NPO法人を立ち上げるしか方法はない!」 と思い込んでいました。 ――確かに起業って分からないことの連続ですもんね。JCC時代の事業を仕事にしたイメージなんですか? 三田 初めから「任期終了後は、JCCで作った事業を自分の事業にしてね」と言われていたんです。JCC時代のミッションは、コスメの本場フランスと連携し、佐賀県唐津市などに化粧品の産業集積地をつくることでした。「唐津コスメティック構想」と名付けられた取り組みでは、産業を生み出し、グローバル展開などを目指すことを目標としていました。 【島のあちらこちらで自生している椿】 ――島と関わり始めのころは、どんなお仕事をされていたんですか? 三田 島の椿の収穫量の調査や、島の椿を使ってもらえる企業が何件あるか、といった仕事をしていました。また、地元の椿を使って化粧品を開発することも仕事でした。 島をコスメ原材料の産地にすることが目的 だったのですが、「大手企業に使ってもらえたぞ!一件獲得!」みたいな打ち上げ花火ももちろん大切なのですが、同時にコスメの原材料作りを、島に根付かせるための仕組みづくりも進めなければ、課題の根本的な解決につながらないと思うようになりました。「なぜ、唐津でコスメ構想を立ち上げるのか?」を、自分なりに考え直すようになりました。 【海岸線沿いから一本路地に入ると、レトロな街並みが広がる】 ――NPO法人としての事業は、何から始めたんですか? 三田 まずは人々が島で営みを送るための環境を整えることが大切だと考えました。島ではイノシシの数が島民の人口を上回り、駆除が追いつきません。監視の目が届かないから、大事に育てた野菜が食べられ、畑は荒らされていく。この負の連鎖をどう断ち切れるのか必死に考えました。そこで目を付けたのがハーブでした。 ――負の連鎖を断ち切るためのハーブですか? 三田 ホーリーバジルなどのハーブは、イノシシなどの害獣が嫌いな匂いがするらしく、植えると畑に近寄ってこないんです。さらに、これまで雑草が生い茂り、イノシシが身を隠しやすかった耕作放棄地を再び畑に戻すことで、人間の目が行き届き、イノシシの被害は少なくなっていく。さらにハーブ畑が増え、安定した量を収穫できるようになれば、加工などのお年寄りでもできる軽作業も増え、仕事が生まれて産業が育つ。こうして循環の仕組みを作るために、NPO法人を立ち上げようと思ったんです。 【イノシシが、わざわざ海を渡り、畑を荒らしている】 ―NPO法人リトコスとして事業を始めていくにつれて、三田さん自身の環境もガラッと変わったんじゃないですか? 三田 そうですね。NPO法人リトコスから株式会社Retocosになって3年が経ちました。様々な賞をいただいたり、「三田さんはすごい事をやっているね」と言っていただけることも多くなってきました。やっていることを評価していただくのは嬉しいのですが、なんだか気恥ずかしくて。「 私は、地域を救う人じゃないんですよ」(笑) 私の事業は「 SDGs だ」といわれることもあるんです。でも昔から島で当たり前に行われてきたことをしているだけであって、「SDGs的なことをやろう」なんて思ったことは一度もないんです。ゴミが道端に落ちていたら拾う、ただそのぐらい当たり前のことをしているだけなんです。 人に好かれようが嫌われようが、やっぱりやるしかない 【防波堤には、子どもたちが書いた可愛い魚の絵がある】 ――たくさんのアワードなどを受賞されているので、とても華々しい活動だと思っていたんですが、本人としてはギャップを感じてられていたのですね。 三田 私が目指したいのは、 人々が自然と共生しながら豊かに暮らす持続可能な社会 なんです 。 コスメの原材料の生産はあくまで手段なので、椿油やハーブなどを使った『コスメの人』というイメージがついてしまったことにギャップは感じました。また、もともと島の出身ではない私が、「島のために頑張っている人」というイメージが持たれるようになって。このことにも自分の認識とギャップを感じていましたね。私としては、昔から当たり前のようにやってきたことを、当たり前のようにやっているだけだったので。 ――様々なギャップが生じてもビジネスを続けている転機のようなものはありましたか? 三田 やっぱり佐賀県庁の産業DX・スタートアップ推進グループの北村和人総括監の助けがあったからだと思います。NPO法人時代に産業DX・スタートアップ推進グループがやっているアクセラレーションプログラムに参加しました。その頃、北村さんから何度も問いかけられていた言葉がありました。それは「三田さんは地域のために、なんでやるのか?」というWHYの部分でした。北村さんの問いの答えをずっと探していました。当時、環境が私を型に押し込めているという感覚に陥り、どうしていいのか分からなくなっていました。そんな苦しい時、手を差し伸べてくれる人、応援してくれている人、理解してくれる人は、実は内側だけではなく、外側にもいることに気が付いたんです。 【時折みせる、三田さんの表情から、これまでの苦労が伺える】 ――全員に理解されようなんて、無理な話ですもんね。共感してくれる人は外にもいた、という感じでしょうか。 三田 事業を始めたころ、耕作放棄地問題の解消など、島の地域課題が解決されるためには、全ての人に受け入れてもらうことが大切だと思っていました。だけど、「別に地域を活性化してもらわなくていい」とか、「現状維持でいい」と思う人だっているわけです。「自分が良かれと思って進めたことが、実は相手はそう思っていないこともある」、そこに気付けた。そこは大きかったです。。(笑) だから、まずは、私が良いと思ったことをやってみる。そして、考えに共感してくれる人とは、一緒にできたらいいなと、シンプルに考えるようにしました。北村さんからの問いの答えを探していくうちに、「人に好かれようが嫌われようが、良いと思ったことをやるしかない」と、覚悟が決まったんです。 逆境を乗り越えてきた原動力は「娘のため」 【もはや“戦友(?!)”の娘さんとの素敵なツーショット】 ――三田さんが事業を進めていく原動力はどこからくるんですか? 三田 実は過去に離婚を経験していて、その時に自分を追い込んでしまい、毎日泣いて過ごしていました。娘は2歳ぐらいでしたが、テレビの「戦隊ヒーロー」みたいな服ばかり着るようになって。「この子はLGBTなのかしら」と疑問に思って、保育園の先生に聞いてみたんです。そうしたら、「三田さんのお嬢さんは、お母さんを守るために、強くなろうとしているんですよ」と教えてくれたんです。 ――娘さんも、「お母さんのために何かしなきゃ」と思ったんでしょうね。 三田 よく「何でそんなに頑張れるんですか?」と聞かれるのですが、私は決して強くてパワフルな人間ではないんです。弱くて小さな人間なんです。でも、そんな私が、これまで事業を続けて来られたのは、娘の存在があったからだと思います。離婚して、「私が泣いている場合じゃない。私がこの子を育てなきゃ、戦わなきゃ」って思うと頑張ることができます。離婚した直後も、仕事をしながら娘と過ごす時間を作るにはどうすればいいかを考え、「事務の仕事であれば、娘との時間を作ることができるのでは」と考え、それまでの美容部員の仕事を辞めました。20年前にパソコンのインストラクターの資格も仕事に繋がると思って取りました。 ――それから商工会連合会に就職して、地域創生と出会い、島と出会って今に至るということなんですね。 三田 島との出会いもありますが、起業して、事業を進めていけるのは娘の存在がとても大きいんです。 今の自然環境を次世代に繋いでいこう、少しおかしくなっている部分があれば、何か行動を起こそうと思えたのは、やはり自分の娘に何をつないでいくかを考えたからなんです。株式会社にしたのも、事業を継続していきたいという思いのあらわれです。 私は、娘から生きていく強さとつないでいくことの大切さを学びました。 私は「自然と共に」今日も仕事をしています 【どんなことにも前向きな三田さん】 ――三田さんがRetocosで大切にしていることは何でしょうか? 三田 私は、島の現状が 『日本の縮図』 だと思っています。自分たちの生活のために、人間がもともとあった自然に手を加え、環境を変えてしまった。そして現代、人口が減り、耕作放棄地が増え、新しい産業も生み出されていないまま過疎化が進んでいる。どんどん衰退している現状が島にはあります。島を知れば知るほど考えることも多くなり、「自分に何が出来るのか」を自らに問いかけてきました。 別にこの島だから、この土地だからといったこだわりはありません。ただ、私は島だったというだけです。 こうした課題は全国どこででも共通している課題です。皆さんには、私がやっている事業だけを答えだと思わずに、その地域の課題に向き合い、環境について考えてほしいです。私は、この島を産地にしたい。そして、継続できる事業にしていきたいと考えています。 ――循環する仕組みづくりが目標であれば、コスメでなくてもよかったのでないですか? 三田 そうなんですよ。自分は「コスメに縛られていたな」と最近気づきました。別にコスメじゃなくてもいいんですよね。自分がこれまでやってきたことを繋いでいったら、コスメや香りを切り口にしていただけのことなんです。私はコスメや香りの資格を持っているわけではありません。土から化粧品を作ったり、土から自分の香りを作るのって面白くないですか。(笑) 私が自然から学んだことを、島に来てくれた人と共有したいんです。 【島で栽培されているハーブ】 ――僕自身も地域活性化の事業に取り組んでいて、なにかと地域活性化の答えを求められることがありますが、答えなんてないんですよね。一人ひとりが地域に入って感じたことで「これをやるよ」って旗を振り、地域に関心を持ってくれた人に問いかけ続けることが大切だと思いますね。 三田 離島って究極のローカル中のローカル、「僻地(へきち)」じゃないですか。そんなところから私は「こんなことがあったらおもしろくない?」って提案しているだけなんです。島を歩いてみるとわかるんですけど、足元には宝物がたくさん転がっています。私は島に生えている雑草でさえ、化粧品の原材料に使うほど、島の宝物を大切にしています。島をコスメや香りの原材料のある産地にして、それをきっかけに、人が島に来てくれるようにすること。香りづくり体験などを通じて、これからの地域資源や環境について考えるきっかけにしてもらいたいのです。。 ――人間関係もそう。心の距離もそう。三田さんは島を通じて、自然との関係性を再生し、編み直す事業をしているように感じますね。 三田 自分では“香り” が島を知り、環境を知り、環境について考えてもらう方法だったんです。地域活性化に答えなんてでなくてもいいんです。この場所に自生している植物を使って、その人と私の合作の香りを生みだすことで心を通い合わせる。これこそが、本当に自分がやりたいことなのです。 【一つ一つ手作業で抽出している島の香りたち】 ――香りを持ち帰った後に、ふと作った香りをかぐと、作った時の記憶が呼び起こされることがありますもんね。それも感覚の共有することに繋がる気がしますね。 三田 自然と人との間に一定の距離感を保ちながら関係性を紡いでいく。島に来た方が、島を離れても、香りをきっかけに島のことを思い出し、島から感じ取ったことを自分の生活に取り入れて欲しいんですよね。 【自然とともに仕事をする三田さんは常に自然体だ】 ――最後に、三田さんの今後の展望などあればお聞かせいただけますか? 三田 NPOを始めた時は「島のために」という想いはありました。でも私は島の人でないから、私に島をどうにかしてもらいたいと思わない人もたくさんいます。 私は、社会貢献をしたいわけではありません。 島の宝物でもある椿やハーブの産地を作り、島に訪れて事業を生み出し、関係人口を作り、自然を再生させて経済回す。自分がやりたいことをやっていく。だたそれだけですね。 ――三田さんは今後、「何者」になっていくんでしょうかね? 三田 自分は何者でもない。無色透明で無臭な空気でありたいです(笑)。「今日の風はこちらから吹いているな」ぐらいの気分でね。事業を継続するためには、今何が出来るかを考えて行動を続けます。それが私の現在地であり、それ以上でもそれ以下でもないんです。だから私は「自然と共に」今日も仕事をしています。 ――お忙しい中、ほんとうにありがとうございました。 プロフィール 三田かおりさん 佐賀県佐賀市出身。外資系化粧品メーカーに就職後、出産を機に佐賀県内の商工会連合会に転職。JCCを経て、人口減少、耕作放棄地問題など、地域課題に直面し、島に産業を作り活性化につなげたいとNPO法人リトコスを設立。2021年には株式会社Retocosの代表を務めている。現在、エシカルツーリズムや離島留学などの幅広い事業にも取り組まれている。